近代化産業遺産 総合リスト


 
建物紹介例
<写真がここに入ります。(下は例)>東平貯鉱庫と索道基地 現在の建物名称(昔の建物名称)
住所(移設の場合、旧所在地) 建築年代
構造/階層 設計者/施工者
文化財指定・顕彰(ある場合)/撮影日/所有状況/
使用状況(建造当時の用途)
建物説明。(文末に参考文献ナンバー)

愛媛県新居浜市(別子銅山・東平地区)編

第三通洞(同左)
新居浜市立川町 明治35年(1902)
石造坑口 不詳/不詳
/10.07/住友金属鉱山/静態保存(鉱業施設)
 別子銅山の象徴的な施設のひとつ。江戸時代より採掘が行われた銅山は明治にはいると深部での採掘が進んだため、別子山の奥地からより標高の低いこの東平の地に採鉱の中心が移りました。採掘の際最も重要な水平坑道として作られたのがこの通洞です。
 施設の重要度を示すかのように坑口ポータルのアーチ上部には井桁の紋が彫り込まれており、住友の繁栄を支えた施設なのだと実感します。夏場はいるだけでひんやり涼しい、天然のクーラーともなっており、是非とも訪れたい施設と言えます。(17.)

旧第三変電所(同左)
新居浜市立川町 明治37年(1904)
煉瓦造/一部二階建 不詳/不詳
/10.07/新居浜市?/静態保存(鉱業施設)
 別子銅山東平地区の変電施設。かつてはこの一帯に採鉱本部も置かれていたそうで、跡地は広々とした原っぱとなっており、夏場のピクニックには最適な空間を形成しています。
 こちらの建物は前回未訪で、夏の時期に訪れることになったのですが、木々に囲まれて今にも自然に飲み込まれそうな様が何とも言えません。用途の面では廃墟のカテゴリにはいるのでしょうが、この施設に関しては、下手に何かに使用しない方がよいように感じます。お薦めの産業遺産と言えます。(17.)

東平インクライン跡(同左)
新居浜市立川町 明治37〜38年
不詳/不詳
/03.12/マイントピア別子/階段(インクライン)
 写真を見るだけではただの長ったらしい階段ですが、周辺の雰囲気と一緒に捉えるといかにも趣のある風景となるところが、東平地区の不思議なところです。
 インクラインとは、トロッコ形式のケーブルカーのようなもので、資材をこの急斜面を通じて上下するために使用されていたものです。ここより緩斜面ですが琵琶湖疎水のインクラインも有名ですね。
 現在はその跡地を220段の階段に整備し直しています。登りのしんどさを我慢して下ってみると、東平貯鉱庫の絶景を見ることができます。(27.現地プレート.) 

東平旧貯鉱庫(同左)
新居浜市立川町 明治38年(1905)
石造・煉瓦造 不詳/不詳
/03.12/住友林業/静態保存(貯鉱庫)
 「こんな拙い写真では、東平地区のものすごさを伝えることはできません」というのが本音です。急斜面を削るように並んだ煉瓦と石の構造物は、人一人居ない空間の中で、かつてここに熱気と歓声があったことを雄らかに語ります。写真では小さいように見える構造物ですが、周辺の木々は決して小さなものではありません。
 現在の東平地区はマイントピア別子分館として、観光機能を担う形で再び脚光を浴びようとしています。既に人が過ぎ去ってしまったあとに、産業遺構は私達に何を語りかけてくれるでしょうか。(17.27.)

東平旧索道基地(同左)
新居浜市立川町 明治38年(1905)
煉瓦造 不詳/不詳
/03.12/住友林業/静態保存(索道台座)
 一度この地域を訪れた人は分かると思いますが、東平地区はかなり山の上にあります。さすがの住友資本でも新居浜からここまでは鉄道を敷設できなかったようで(そもそも非効率的)、この地域から鉄道の駅まではケーブルを用い物資人員を輸送していました。これはそのケーブルの基壇になります。
 東平地区は昭和10年まで別子銅山の中枢的役割を持っていました。かつては数千人の人々が住んでいたこの地区も現在は誰も住んでいません。現在ここは花木園となっています。(17.27.) 

旧別子銅山病院東平分院(同左)
新居浜市立川町 明治38年(1905)以降
石造建物基礎など 不詳/不詳
/10.07/住友林業/静態保存(医療機関)
 東平の傾斜が多い敷地の中でもひときわ危険な場所に建てられた施設。病院敷地のすぐそこには急な崖があり、誘導路も狭くなっています。いわゆる避病院としての役割もあったのでしょうか。
 一応施設の紹介部分としては建物の基礎があるため、としていますが、それとすぐ分かる基礎部分はほとんど無く、建物の入口を示す門柱と塀が遺されています。これら施設は鉄筋コンクリートで作られていると思われるため、実際の遺物の竣工期は明治期よりも後になるでしょうか。(現地案内板.)

旧配給所(同左)
新居浜市立川町 明治39年(1906)
煉瓦造建物基礎など 不詳/不詳
/10.07/住友林業/静態保存(鉱業施設)
 明治期の竣工当初は配給所として、後には生協の施設になって市民の台所を支えた場所。周囲には社宅が並んでいたと思われますが、現在は石組のみが遺されています。
 東平地区が閉鎖されて後、施設は解体され代わりに住友林業による杉の植林が行われました。かつての建物基礎部分にまできっちりと植林が進み、いずれはその繁栄の痕跡も分からなくなってしまうのでしょうか。緑の力とは実に力強いものです。(現地案内板.)

旧東平娯楽場(同左)
新居浜市立川町 明治45年(1912)
石造建物基礎など 不詳/不詳
/10.07/住友林業/静態保存(余暇施設)
 東平地区の生活空間の中では最も大きな建物の跡。それを示すように建物基礎部分が最も良好に遺されているほか、建物玄関部分にかけられていた橋も現存します。
 ちなみに写真で載せている部分は何か分かるでしょうか。この円形の石組みはかつての回り舞台の痕跡だそうです。かつての建物と賑わいは喪われましたが、ちょっとしたところにかつての痕跡が見え隠れしており、なかなか面白いです。(現地案内板.)

火薬庫(同左)
新居浜市立川町 明治45年(1912)頃か?
石造・コンクリート造貯蔵施設 不詳/不詳
/10.07/新居浜市?/静態保存(鉱業施設)
 東平地区の別子銅山遺構群のなかでは比較的ひっそりとした施設ではありますが、火薬庫という採掘作業にはなくてはならない重要な遺構と言えます。道に対して斜めに火薬庫が作られているのは、火薬が暴発した際に道の反対側にある採鉱本部にまで被害が及ばないようにこのような形になったそうです。
 私が訪れた際はちょうど梅雨明けの時期に当たり、火薬庫の入口付近は完全に水没していたために中の写真を撮ることが出来ませんでした。しかしながらこれはこれで趣深い写真になったかと思います。(17.)

マイン工房(変電所→鉱山保安本部)
新居浜市立川町654 明治〜大正期
煉瓦造/平屋建 不詳/不詳
/03.12/マイントピア別子/工作施設(事務施設)
 東平地区の上屋の中では唯一活用されている建物。当初は東平地区の変電施設、のち鉱山保安本部として使用されていたようです。東平地区の中心部にあっていろいろな用途に転用を繰り返し、現在まで遺されてきたのでしょう。
 そんな建物も現在は工作教室と物販施設に転用されています。今も昔も使用され続けることに建物の幸せがあるのなら、この建物は実に幸せな生涯を送っているのではないでしょうか。(17.27.) 

東平旧坑内電車用トンネル(同左)
新居浜市立川町 昭和13年(1938)頃
石造トンネル 不詳/不詳
/03.12/マイントピア別子/静態保存(トンネル)
 第三通洞からまっすぐのびていた坑内電車が東平にたどり着く寸前のアーチ。内部の外壁は煉瓦で作られており、それもいろいろな澱が表面にこびりつき、時間の経過を私たちに感じさせてくれます。内部のバラストは保存状態がきわめて良く、つい先年に廃止されたような廃線の趣さえ感じさせます。
 ここを往復した坑内電車は、別子地区とこの地区を往復する一般住民に開放されていて、「駕籠電車」という愛称さえありました。写真撮影当時は整備途上でしたが、現在は東平地区で使用されていた各種車輌群を展示しています。(17.27.) 


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