近代化産業遺産 総合リスト


 
建物紹介例
<写真がここに入ります。(下は例)> 現在の建物名称(昔の建物名称)
住所(移設の場合、旧所在地) 建築年代
構造/階層 設計者/施工者
文化財指定・顕彰(ある場合)/撮影日/所有状況/
使用状況(建造当時の用途)
建物説明をくどくどと。(文末に参考文献ナンバー)

広島市中区編

広島電鉄千田町変電所事務所棟
(広島電気軌道火力発電所ボイラー棟)
広島市中区東千田町二丁目 大正元年(1912)
煉瓦造/平屋建(一部2階建) 不詳/不詳
/06.6/広島電鉄/交通施設(同左)
 煉瓦造の発電所建築。タービンなどの高出力機器を扱っている関係からか、このような発電関連施設はその殆どが木造以外の耐火建築で作られています。こちらは鉄筋コンクリートが普及する以前の頃の建物なので、煉瓦が使用されています。設計施工はともに不詳ですが、大林組の関与も考えられるとのこと。
 やはりこの作品も原爆の被害を受けたそうなのですが、メンテナンスが行き届いてあるからか、そのような印象がありません。どこにあっても大切にされそうな遺産と言えます。(58.)

広島電鉄千田町変電所変電所棟
(広島電気軌道火力発電所発電棟)
広島市中区東千田町二丁目 大正元年(1912)
煉瓦造/平屋建 不詳/不詳
/06.6/広島電鉄/交通施設(同左)
 赤煉瓦がはっきりと分かる旧ボイラー棟に隣接して建てられている発電棟。現在も変電所の用途で用いられています。
 原爆による被害のため、煉瓦壁が大きく損傷を受け、昭和33年に鉄筋コンクリートによる補修が行われ、外観はモルタルによって全面的に塗られ現在写真にあるような状態となりました。
 正面から見てみると、入り口部分の意匠から古さを垣間見ることが出来ますが、それ以外からはなかなか煉瓦造とは判断しづらい状況にあります。側面を眺めると、なるほど煉瓦造りであることが確認できます。(58.)

原爆ドーム(広島県物産陳列館・産業奨励館)
広島市中区大手町 大正4年(1915)
煉瓦造モニュメント(3階建) ヤン・レツル/椋田組
世界文化遺産/06.6/広島市/静態保存(行政施設)
 日本有数の廃墟、最も知名度の高い近代建築、世界屈指の戦争遺跡等々いろいろな言われ方をしますが、元々は公共施設として建てられた、地方にはよくある産業振興会館でした。原子爆弾の直撃を受け、一瞬にして廃墟となり、現在に至っています。昭和30年代頃までは誰でも近寄れる状態になっていたようで、そのころと比較すると若干欠損が進み、前よりも小さくなっているとのこと。
 現在は耐震補強を行った上で世界文化遺産として登録、モニュメントとして保存されています。所々にはかつての意匠も残り、往時は華やかな外観であったことが想像されます。(58.)

広島アンデルセン(三井銀行広島支店)
広島市中区本通 大正14年(1925)
鉄筋コンクリート造/2階建 長野宇平治/大倉土木
/06.6/民間/商業施設(金融機関)
 アーケード内にある商業施設。元々は三井銀行の支店として建てられた、銀行建築でした。銀行自体が移転した後は、地元のベーカリーチェーンが旗艦店舗として改装、朝食も行える商店として営業しています。隣接して7階建ての新館も設けており、地元に根ざした商売を行っているようです。
 被爆建築という陰を持ちがちな広島の近代化遺産の中では、比較的華やかに使用されており、気軽な洋館探訪にはもってこいではないかと思います。(58.)

広島市立本川小学校平和資料館(同左)
広島市中区本川町 昭和3年(1928)
鉄筋コンクリート造/平屋建 増田清/不詳
/06.6/広島市/静態保存(教育施設)
 原爆の被害を受けた小学校建築。ただし、そのままの形で一棟丸ごと保存活用されている建物は広島にはなく、こちらの小学校では一部分を残す形で一階部分がこのように保存され、平和資料館として公開されています。
 保存形態としては、原爆の被害状況もあったのでしょうが、建物の中で一番インパクトのあった一回のアーチ部分が優先的に保存され、平和資料館となっています。戦争の悲惨さを伝える施設としては、もっとも説得力のある施設のひとつでしょう。(58.広島の建築ウェブサイト.)

広島市レストハウス(大正屋呉服店)
広島市中区中島町 昭和4年(1929)
鉄筋コンクリート造/3階建 増田清/清水組
/06.6/広島市/余暇施設(商業施設)
 広島平和公園内にあって、商業建築のたたずまいを持っているのですが、周囲には公園施設のみとなっているため、竣工当初の用途が分かりづらい建物と言えます。この建物は、原爆投下までこの平和公園一帯が繁華街に位置していたことを示す物言わぬ記念物と言えます。当初呉服店として建てられた後、燃料組合の会館として用いられ、戦後は復興事務所に活用された戦後復興にも貢献した、重要な遺構です。近年立て替えの話もあるとのこと、、非常に心配です。(58.)

旧広島文理科大学本館(同左)
広島市中区千田町 昭和6年(1931)
鉄筋コンクリート造/3階建 文部省会計局施設掛/藤田組
/06.6/広島大学/静態保存(教育機関)
広島文理科大学の本館として建てられ、戦後は長く広島大学の理学部として使用され続けた建物です。広島大学の東広島市への総合移転に伴い、千田町キャンバスにあった建物群は順次取り壊され、現在キャンパス跡地はほぼ公園となり、こちらの建物のみがぽつんと取り残された格好になっています。
 周囲ではキャンパス跡地が公園化したことによって、住環境が向上した結果高層マンションが次々に建設されています。キャンパス移転が正しい選択であったかどうか、数十年後に結果が出てくるのでしょうか。(58.)

旧日本銀行広島支店(同左)
広島市中区袋町 昭和9年(1934)
鉄筋コンクリート造/3階建 長野宇平治/清水組
市指定重要文化財/06.6/広島市/静態保存(金融機関)
 辰野金吾の煉瓦建築から比較すると、多少インパクトの面では劣るところもありますが、様式建築としての完成度は既に完成領域にあると言って良い銀行建築の名作です。設計者は長野宇平治で、日本銀行本店の増築部分を請け負っています。
 日本銀行が新築移転した後、存廃が議論されていましたが、現在は市の指定文化財となり本格的な利用に向け協議が行われているようです。平成13年からは暫定利用としてギャラリーとなり、現在に至るまで一般公開されています。(58.)

広島市江波山気象館(広島測候所)
広島市中区江波南一丁目 昭和9年(1934)
鉄筋コンクリート造/2階建 広島県建築課(伊達三郎)/不詳
市指定重要文化財/06.6/広島市/静態保存(公共施設)
 穏やかな色調の近代建築。その当時の県庁系建築にあるような二連続の縦長窓と水平ルーパーを用いながらも玄関やバルコニー部分、それから塔屋に設けられているちょっとした曲面にきらりと光るデザイン性を感じさせます。時代の背景を丁寧においながらも独自のデザインを見せるところに名建築としてのポイントがあるのでしょう。秀逸な建物だと言えます。
 現在は全国でも数少ない気象関係の記念館として使用されています。内部の各種設備は大人でも十分楽しめます。電停から少々歩きますが、お薦めの施設のひとつです。(58.)

広島逓信病院被爆資料室(広島逓信病院外来棟)
広島市中区東白島町 昭和10年(1935)
鉄筋コンクリート造/2階建 山田守/坂本組
/06.6/NTT西日本/静態保存(医療機関)
 逓信省建築の逓信省建築たる部分が十二分に生かされている病院建築。大きく開かれた窓は病院という用途には実にぴったりで、この後逓信病院建築で数多くの名作を遺す山田の結節点を示す作品と言えるかも知れません。
 こちらの建物は内部も比較的良好な形で保存されていることも特徴的だと言えます。中でも処置室は当時の医療機関らしく、衛生面に気を遣ったタイル張りでまとめられており、戦前期の病院空間を知る上で貴重な遺産だと断言します。 (58.)

NTT広島西営業所(広島中央電話局西分局)
広島市中区西十日市町 昭和12年(1937)
鉄筋コンクリート造/3階建 逓信省営繕課/不詳
/06.6/NTT西日本/事務施設(同左)
 一見する限りでは近年建てられた事務所建築と全く見分けがつきませんが、建物の古さは一階部分に後で作られた駐車場部分から伺うことが出来ます。逆に言いますと、遠目から判断する限りでは、ここに載せることがはばかられるくらいのたたずまいです。これは、改修がかなり進んだために起こった事と言えますが、建物が延命していくためには、やむを得ないことかも知れません。
 やはり逓信省建築のひとつとして山田守の関与が考えられています。その改修具合から、ある意味山田守が遺した建築の中でも異色の作品と言えるでしょう。(58.)

旧広島銀行銀山町支店玄関(広島合同貯蓄銀行玄関)
広島市中区銀山町 昭和12年(1937)
鉄骨鉄筋コンクリート造/3階建 不詳/藤田組
正面玄関部移設保存/06.6/広島銀行/静態保存(金融機関)
 銀行支店の裏手側、通用口の近くにあって自動車の出入もあるからか、警備員さんが写真を撮る人たちに若干いぶかしい目を向けるという、実に悲しい位置関係に置かれている近代建築の遺物です。ちょうど年号が昭和から平成に入る頃に解体され、正面玄関のみがこのような形で保存展示されています。
 この保存手法は、金融機関が被爆建物を撤去することに対してのある種の「後ろめたさ」を表しているのかもしれません。本来あった大通りから切り離され、車両搬入スペースの片隅にひっそりと保存されています。実に虚しさを感じます。(a.広島ぶらり散歩ウェブサイト.)

袋町小学校平和資料館(同左)
広島市中区袋町 昭和12年(1937)
鉄筋コンクリート造/平屋建
(建造当初3階建)
広島市営繕課/森田工業
/06.6/広島市/静態保存(教育施設)
 本川小学校と同じく、建物を部分保存することによって原爆被害を今に伝える資料館のひとつ。やはりこちらも一階部分を保存してありますが、階段室の一部をあえて取り込んでいるところに保存の特徴があります。これは、こちらの階段室の壁から原爆投下直後に被害者たちによって書かれた伝言が見つかったからです。
 どうせなら、現在の状態でなく長崎の城山小学校のように三階までの階段室を遺す方法もあったのではないでしょうか。そう考えると、非常に残念な遺し方と言えます。(平和資料館サイト.58.)

福屋百貨店(同左)
広島市中区胡町 昭和13年(1938)
鉄骨鉄筋コンクリート造/8階建(地下2階) 渡辺仁/藤田組
/06.6/福屋/商業施設(同左)
 戦前期の大規模商店建築。これだけの規模の百貨店建築で、しかも現役の店舗として現存している例は、西日本ではもはや希有の存在と言えるでしょう。まして、原子爆弾の直撃を受けている建物という経緯があるのも、この施設の貴重さを否応なく高めています。
 昭和20年のその日、建物は全面的な被害を受け、外観以外は営業できる状態ではなかったそうです。そんな施設が現在も使用され続けているところに、平和都市広島の真骨頂があるのではないかと感慨に堪えません。文化財候補のひとつと言えます。(58.)

広島赤十字・原爆病院モニュメント(日本赤十字社広島支部病院)
広島市中区千田町一丁目 昭和14年(1939)
鉄筋コンクリート造/(3階建) 佐藤功一/不詳
/06.6/日本赤十字社/静態保存(医療機関)
 広島にある赤十字・原爆病院の正面玄関近くにかろうじて遺されたモニュメント。とはいえ、かなり大振りなものでこの窓周りから、当時の建物の天井高が推測できます。かなり大規模な建物であったのでしょうが、こういう状態になってしまうと、ゆがんだ窓枠やガラスの突き刺さった壁面から原爆の被害状況を垣間見る以外での見学方法が見つかりません。
 医療機関はその求められている高度技術から建物として保存されることがきわめて希となっています。この作品も、原爆の被害を受けたからこそ現在一部でも遺構を確認できるのかも知れません。医療建築の空間としての保存が、建築史を考える上では重要になる日が来るのではないかと考えさせられます。(0.病院サイト.)

広島世界平和記念聖堂(同左)
広島市中区幟町 昭和29年(1954)
鉄筋コンクリート造/3階建 村野藤吾/清水建設
国指定重要文化財/06.6/宗教法人/宗教施設(同左)
 戦後初の国重要文化財に指定された、村野藤吾の真骨頂と言えるほどの作品。所々に人の手による装飾をちりばめて、無味乾燥なモダニズム建築への対抗意識を所々ににじませています。かと思えばステンドグラスは現代の空間でも十分通用するような直線的なものを採用し、所々に村野氏の気概と言ったものを感じさせます。
 建物内にある彫刻は、多摩美術大学教授で彫刻家の圓鍔勝三によるもので、これもまた重要な芸術品です。圓鍔は広島県出身と言うこともあり、これら作品の製作には、ひとかたならぬ気概があったのではないでしょうか。(広島の建築ウェブサイト.)

広島平和記念資料館(同左)
広島市中区中島町 昭和30年(1955)
鉄筋コンクリート造/2階建 丹下健三/大林組
国指定重要文化財/06.6/広島市/公共施設(同左)
 コルビュジエの流れを受け継ぐ丹下健三の代表的作品。横長のフォルムに印象的なピロティー、装飾を極限まで廃したスタイルは、まさしくコルビュジエの提唱した近代建築そのものと言えます。そういった意味で国の重要文化財指定は当然の帰結と言えますが、建物のコンセプトとしては対極にある村野の広島世界平和記念聖堂との同時指定には意味深なものを感じさせます。
 この建物のデータを調べるとき、建物の施工者がどうしても分からず数日困ってしまいました。丹下建築という事に価値があって施工はどうでも良いのでしょうか、、、。(広島の建築ウェブサイト.69.)


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