近代化産業遺産 総合リスト


 
建物紹介例
<写真がここに入ります。(下は例)>
現在の建物名称(昔の建物名称)
住所(移設の場合、旧所在地) 建築年代
構造/階層 設計者/施工者
文化財指定・顕彰(ある場合)/撮影日/所有状況/
使用状況(建造当時の用途)
建物説明。(文末に参考文献ナンバー)

北九州市小倉北区(小倉地区)編

白洲灯台(同左)
小倉北区藍島沖 明治6年(1873)
石造灯台 R・H・ブラントン/不詳
/07.6/国/交通施設(同左)
 こんな写真じゃ分からん、といわれればまさしくその通りではあるのですが、この灯台を見学することは、全く至難の業です。定期航路または近くを通るコースと言ったものが無いからです。
 釣り人にとっては有名なポイントのようです。また近年では「二階堂」のCMにも採り上げられ有名になりました。元は明治初期の庄屋が私設の灯台を設置した位置に国が改めて石造りの灯台を建造いたしました。ブラントン灯台のひとつです。もう少し見学しやすい場所にあれば、こんな写真を使うこともないのでしょうけど、、(41.)

旧手向山砲台施設(同左)
小倉北区大字赤坂 明治21年(1888)
煉瓦造施設 不詳/不詳
/05.3/北九州市/静態保存(軍事施設)
 小倉の中心部からほど近い手向山の屋上部には、明治期の軍事施設が遺っています。現在は公園の中にあって、その施設の一部が保存されています。
 横穴式の兵舎壕や弾薬壕などは、他の明治20年代軍事施設と変わりませんが、公園内に散在するその残り具合は特徴的なものがあります。道路に半分埋まった形の兵舎壕を見ると、時代の流れを感じずにいられません。(現地調査.)

旧手向山砲台変電所(同左)
小倉北区大字赤坂 明治21年(1888)
木造/平屋建 不詳/不詳
/05.3/北九州市/静態保存(軍事施設)
 手向山公園駐車場の片隅に唐突に保存されている煉瓦建築。背面に煙突が取り付けられていることから、火葬場ではないかと長年いわれていましたが、近年では変電所という説が最も有力な施設となっています。
 明治期の軍事施設は情報がなかなか分からないものが多く、このような現物が残されている施設でさえ、正確な用途が分かりません。軍事史跡は今後各種学会での調査が必須の分野のひとつです。(現地調査.)。

BLUE KOKURA(旧小倉県庁? 小倉警察署)
小倉北区室町二丁目 明治23年(1890)以前
木造瓦葺/2階建 不詳/不詳
(改築:白水碩次郎/原田留造)
/02.9/民間/病院(公共機関)
 リバーウォーク北九州の向かい側にあって、静かにたたずむ洋館。この建物の竣工年代に関しては、郷土史会と建築サイドで全く異なりましたが、棟札の発見によって謎は大きく前進。北九州最古級の擬洋風建築であることが判明いたしました。和小屋組の天井裏には、かつて有った火ノ見台への階段が一部残存しています。近年商業施設としてオープン、店内には歴史コーナーも設置しています。
 建替サイクルの早い商業都市にあってただ1棟気高く遺っている姿は、尊敬の念を抱かずには居られません。(8.41.現地調査.)

北九州市森鴎外旧居
小倉北区鍛冶町一丁目 明治30年?
木造/平屋建 不詳/不詳
市指定有形文化財/02.9/北九州市/静態保存(住宅)
 森鴎外が軍医として小倉に赴任した時の、最初に住んでいた建物です。何人かの手に渡り民家として使用され、現在は市の所有となり記念館となっています。典型的な日本家屋のひとつです。森鴎外はこの家から馬に乗って小倉城址にあった軍師団施設へ移動していたとのこと。
 周囲は小倉繁華街の一角にあり、呑み屋などが林立しています。ここの周囲だけが別世界のようで、往時の小倉の雰囲気を残しているのではないでしょうか(8.)。

旧東京製綱小倉工場事務所(同左)
小倉北区高浜一丁目 明治39年(1906)
煉瓦造/2階建 不詳/清水組
/04.2/東京製綱/倉庫など(事務施設)
 赤煉瓦の明治建築と見て分かるだけの説得力を持った建物です。明治39年に小倉に進出、工場を建設しましたが、先年撤退されました。しかしそのために工場の高い塀も取り払われ、このような見目良い建物が明らかになりました。
 現在設備の大方は取り払われ、同時期に造られたと思われる倉庫とこの事務所が現存しています。国道199号線沿線はこの建物から門司方面にかけて古い工場建築が多く、ドライブにお薦めです。(4.5.8.)

旧東京製綱小倉工場倉庫(同左)
小倉北区高浜一丁目 明治39年(1906)
煉瓦造/平屋建 不詳/清水組
/04.2/東京製綱/倉庫(同左)
 単なる倉庫だと言えば、それまでですが、門司港地区などによく見られる煉瓦構造にモルタルが塗ってあるような小細工は一切無く、煉瓦そのものの持ち味を十分に生かした作品に仕上がっていると思います。
 東京製綱は小倉工場閉鎖後、跡地を倉庫を中心に使用しているようです。かなりの敷地面積を持ち、なおかつこのような見目よき近代化遺産を持っていることから、今後有効な活用方法が見いだせれば、を考えているのか、注目の集まるところです。(4.5.8.)

陸軍第十二師団正門(同左)
小倉北区城内 明治期
煉瓦造門柱 不詳/不詳
/05.2/国?/静態保存(軍事施設)
 小倉城のボリュームから考えると、ここにあること自体がもはや不自然としか言いようのない作品。陸軍施設として使用されていた時期の門柱であったとのこと。それにしては、門柱の丈が低いことが気にかかります。これは何か原因があってのことなのでしょうか。悩ましい限りです。
 明治期軍都として栄えた小倉ですが、現在それを偲ばせる遺構は数少なく、そんな中でこの門柱は貴重な文化遺産といえます。公園内に有るので、もう少しわかりやすい解説板などがあると良いのでしょうけど。(41.)

住市商店(同左)
小倉北区魚町二丁目 明治期
木造/2階建 不詳/不詳
2005年解体/05.9/民間/商業施設(同左)
 解体直前に話を伺い、急遽見学した建物。小倉の商店街中心部にこのような建物が遺っていたとは、びっくりと言った状態でした。間口の広い商家建築として大変貴重な造りでした。一階部分は改装を受けておりますが、内部は明治期の商家そのままの雰囲気を持ち、天井や壁、二階の等から見える箱庭など見るべきものは数多くありました。
 これが阪神圏であれば、商業施設などに再活用も出来るのですが、北九州ではそのような文化は未だ育っていないようです。かくして建物は解体され、現在はビルが建っています。残念です。

旧陸軍倉庫→陸上自衛隊九州補給処城野支処
小倉北区片野新町3丁目 大正3年(1914)
木造/2階建 不詳/不詳
2008年解体/03.10/JR九州/軍事施設(同左)
 JR城野駅からすぐの位置には、自衛隊の補給施設があります。この施設はその施設内に遺されている戦前期からの倉庫施設です。
 戦前期の用途については私の手持ち資料から、残念ながら詳しいことは分かりません。戦後には進駐軍の所轄施設となっており、朝鮮戦争時には遺体安置場として使用されていたそうです。
 現在も自衛隊の施設として使用されているため、残念ながら公開されないまま解体の憂き目にあいました。ただ、こういった施設があったことを、この地域に住む人間のひとりとして、決して忘れてはならないでしょう。

旧小倉鉄道東小倉駅階段口(同左)
小倉北区高浜一丁目 大正4年(1915)頃?
石造階段 不詳/不詳
/04.2/JR九州/静態保存(交通設備)
 松柏園ホテルのほぼ向かい側、小倉北区の中でも鉄道沿いにありながら余り交通の便が良くない地区に位置する施設です。かつては、ここに私鉄・小倉鉄道の始発駅「東小倉駅」がありました。
 この階段は、東小倉駅に続く通路の一部として作られた施設です。小倉鉄道が国有化され、また路線が変更されたことに伴い東小倉駅の旅客機能が小倉駅に移行した結果、この階段が現在使われることはなくなりました。しかし、かつて鉄道駅があったことを階段は物言わず、雰囲気のみで私たちに伝えてくれます。(41.)

湖月堂赤煉瓦館(旧湖月堂酒類倉庫)
小倉北区京町二丁目 大正7年(1918)
煉瓦造/3階建 不詳/不詳
/03.10/湖月堂/店舗(倉庫)
 乗降客数九州第二位の小倉駅前、その直近にあるアーケード(しかも駅から歩いて1分の地点)に倉庫があったというところを疑問に思う方がいるかもしれません。しかしこの小倉駅は昭和30年代に移転してきたものであることを考えると、宜なるかな、と納得頂けると思います。
 アーケードに隠れていますが、3階建ての建物で、元々は地元菓子屋が行っていた卸業のお酒取り扱い倉庫、近年は所有はそのままに飲食店として再生されています。都市近郊の産業遺産再生例として、身近な建築となっています。(a.)

新日本製鐵紫川取水場ポンプ室(同左)
小倉北区木町二丁目 大正7年(1918)
煉瓦造/平屋建 不詳/鴻池組
/04.3/新日本製鐵/ポンプ場(同左)
 都心部にあって一見すると教会か倉庫のように見えてしまう建物ですが、隣接する紫川のポンプ場として、まだ市街がスプロールをおこす以前からたたずまいを保ちつづけています。
 写真後ろ側(大通りに面していない方)は増築の跡が見られますが、全体のスケール変更点はそのくらいだと思われます。近年窓サッシの変更が行われ、外見のイメージが少々見劣りする結果となってしまいました。(5.8.)

旧小倉陸軍造兵廠防空監視哨(同左)
小倉北区大手町 昭和初期
鉄筋コンクリート造 不詳/不詳
/05.3/民間?/道路橋(同左)
 病院の片隅に唐突に保存されているコンクリート構造物。その用途は戦時中の防空用監視施設で、小倉造兵廠工場屋上部より移設されたものです。近接した位置に、かつて造兵廠の給水塔がありましたが今はなく、縮小復元されたレプリカが隣接した公園に遺されています。
 こうやって現物を見てみると、さすがに唐突さは否定できませんが、わずかながらも造兵廠の歴史を語る施設を遺そうという姿勢に素直に敬意を表したいと思います。

レイメイ藤井事務所(小倉造兵廠施設)
小倉北区大手町 昭和初期
鉄筋コンクリート造/3階建 不詳/不詳
2002年頃解体/01.11/民間/事務施設(軍事施設)
 小倉造兵廠時代の施設としては、往時の雰囲気を最もよく遺していた施設、と言われていた施設でした。屋根構造が少し特殊で、これは機能によるものなのか、それともデザイン上のものかははっきりしていません。小倉造兵廠は戦時中の施設ではなく、関東大震災を期に首都圏に集中していた軍需工場群を分散した中のひとつなので、それぞれに気合いが入った建物も多く造られていたものと思われます。この建物もそれらの内のひとつだったのでしょう。
 建物自体は駅前の再開発事業に伴い解体、現在では弁護士会館とコンビニが建っています。後から考えると、意外と奥行きの深い建物であったのでしょう。つくづく、一度内部を見たかった、と言わざるを得ません。(41.)

室町館(不詳)
小倉北区室町二丁目 昭和初期?
木造/2階建 不詳/不詳
2003年頃解体/02.9/民間/商業施設(同左)
 現在のリバーウォーク真正面側にあったビアホール。見たところ小倉室町が一番の繁栄を迎えていた戦前期、あるいは戦後初期の作品ではないかと推察いたします。ただ、解体された今となっては調べようもないところですが。
 跡地には現在西日本最高峰の高層マンションの建設予定があります。その影響もあったため取り壊されたのでしょうか。それにしては、つくづく雰囲気の良さそうな空間が失われたことは、残念と言うほかありません。

米七ビル(同左)
小倉北区魚町一丁目 昭和9年(1934)
鉄筋コンクリート造/3階建 不詳/不詳
/05.9/民間/商業施設(同左)
 小倉中心部の商店街にあって、アーケードからは見えない近代建築です。アーケード正面部分は大きく改装されているため、往時の姿を知ることは難しいですが、側面からは、派手ではないものの味のある「近代」の色を知ることが出来ます。窓の上下に施された串歯状の飾りや、軒部分の伸び上がるような装飾は、なかなかのインパクトです。
 近年次々と建物が消えつつある小倉中心部にあって、貴重な建物といえます。活用され続けている間は心配ないですが、いざ解体、の時に備えて、記録調査くらいは行っておきたい、渋い遺産のひとつです。(41.)

旧小倉玉屋(菊屋百貨店)
小倉北区室町一丁目 昭和10年(1935)
鉄筋コンクリート造/五階建
(地下一階、増築後八階建)
不詳/金子組
2002年解体/00.12/小倉玉屋/百貨店(同左)
 九州の老舗百貨店では操業当時の姿を留めている唯一の建物でした。井筒屋や岩田屋、福岡玉屋では大規模な外部改修が行われ、まさにここだけが“九州のハロッズ”と称されるようなたたずまいを誇る、孤高の百貨店と言えます。創建当初は五階建てでしたが、後年に改修が行われていますが、これはデザインの違うので、この写真からでもすぐに分かるかと思います。
 リバーウォーク建設に伴い、一部敷地が重なったため撤去。現在その痕跡を探る事は出来なくなってしまいました(5.8.)。

小倉ワシントンビル(かねやす百貨店)
小倉北区魚町三丁目 昭和11年(1936)
鉄筋コンクリート造/7階建 不詳/不詳
/06.1/民間/商業施設(同左)
 小倉の中心部、かつては西鉄路面電車北方線が走っていた道路沿いにある建物。現在でこそファサードが改修を受け、古さを感じることは難しいですが、かつては小倉の百貨店業界で井筒屋としのぎを削っていた「かねやす百貨店」の新館として建てられた施設でした。
 九州でも稀少な戦前期竣工の百貨店建築です。現役のビルであることも確かに重要ですが、屋上部に防空監視哨が現存することなど、当時の時代背景を色濃く遺した建物であることもとても貴重な建物です。側面からは、アールをとったリズミカルな壁面構成を見ることが出来ます。見れば見るほど、愛らしい建物と思うのは、私だけでしょうか。(41.)

寿橋(同左)
小倉北区堺町二丁目 昭和12年(1937)
鉄筋コンクリート造アーチ橋 不詳/不詳
/03.12/北九州市/道路橋(同左)
 紫川に比べると少し淋しげな砂津川に架かった橋です。欄干は改修が施されているものの、側面の装飾は現在北九州市ではお目にかかれにくい、ロンバルド帯を持った落ち付いたデザインです。
 戦後の開発にまみれることなく、また近年の河川改修によって取り壊されることもなかったのは、ひとえにこの川が都市の生活部分に近接していたからでしょう。最近紫川にできた橋よりもこちらに親近感を覚えるのは、私だけではないかと思います。近くには旧小倉市の紋章をデザインに用いた水道橋(戦後竣工)もあり、こちらも必見です。 

ワイ・イー・テック小倉工場(小倉造兵廠施設)
小倉北区城内 昭和戦前期
鉄骨造/平屋建(当初) 不詳/不詳
2014年頃解体/06.9/ワイ・イー・テック/工業施設(同左)
 一棟はトタン貼りに仕上げられていることから、非常に年代が読めない状況となっていますが、小倉造兵廠の施設として使用されていたことは間違いありません。鉄サッシで広くとられている窓周りは、鋸屋根に出来なかった(または、しなかった)建物の採光目的のためには必須不可欠なものでした。
 近年までは安川電機の関連会社が、工場施設として大切に使用されていました。会社の遺産に対して理解が深い、と思っていたのですが、最近少し疑念を持っています。(41.聞き取り.)

大成旅館(大成館)
小倉北区京町一丁目 昭和戦後初期
木造/3階建 不詳/不詳
/05.10/民間/商業施設(同左)
 小倉京町の商店街内に密やかに遺る木造三階建建築。外装材は近年改修を受け、また窓周りは明らかな改装の跡が見られることなどから、ちょっと年代が読めません。しかし、戦後すぐくらいの建物ではないかとにらんでいます。
 よく見ると、建物の三階部分が二階よりも若干引っ込んだ形で作られています。これは三階部分の加重を下の階で持たせづらいときにとる手法のひとつで、民間による木造総三階建ての技術が確立するまではこのような建て方が自然であったようです。この建物が技術的な問題でセットバックしているのか、それとも経済的な事情によるものなのかは分かりませんが、見れば見るほど技術史の系譜を知ることの出来る、味のある施設といえましょう。 

旧朝日新聞西部本社(同左)
小倉北区砂津一丁目 昭和戦後期
鉄筋コンクリート造/4階建 不詳/不詳
2004年頃解体/02.6/朝日新聞/事務施設
  新聞社は戦前期の北九州工業地帯、その中心都市のひとつであった小倉が持っていた情報発信基地といえます。朝日新聞もそれらのひとつで、写真に撮った棟は、おそらく戦後期のものです。
 大阪朝日新聞九州支社は昭和12年に門司から小倉の砂津へ移転しました。角部にあるこの施設がその当時の施設とは考えづらいですが、敷地内には当時からのものと思われる構造がちらほらあったように記憶しています。
 やはり、失われた建物のことを語るのは、つらいですね。(41.)



旧小倉北消防署(同左)
小倉北区 昭和29年
不詳/不詳
/03.12/北九州市/(同左)
  

(小倉造兵廠施設)
小倉北区 昭和
鉄骨造/平屋建 不詳/不詳
/06.9//工業施設(同左)
 。(41.聞き取り.)


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