近代化産業遺産 総合リスト


 
建物紹介例
<写真がここに入ります。(下は例)>
現在の建物名称(昔の建物名称)
住所(移設の場合、旧所在地) 建築年代
構造/階層 設計者/施工者
文化財指定・顕彰(ある場合)/撮影日/所有状況/
使用状況(建造当時の用途)
建物説明。(文末に参考文献ナンバー)

北九州市小倉南区編

自衛隊小倉駐屯地史料館(歩兵第四十七連隊将校集会所)
小倉南区北方五丁目1−1 明治31年(1898)
木造/平屋建 不詳/不詳
/09.10/国/資料館(軍事施設)
 旧陸軍が明治30年、小倉に駐屯地を開設した際に造られた建物だそうです。造られた年代から考えると装飾は少なめで、さすがに実用重視の軍関係の建物、といった様相です。実用段階で改装されていることも多く、外観でこれだけきっちり遺されている例も九州ではそう多くはありません。
 竣工年代から考えて、小倉南区では最も古い洋風建築であることは間違いないようです。内部は陸軍関係の資料が充実しており、軍事関係の方のみならず、地域の歴史としてこの施設を見学するのも良いでしょう。(8.84.)

高蔵山堡塁(同左)
小倉南区大字沼 明治33年(1900)
煉瓦+石+コンクリート造施設 不詳/不詳
/06.2/北九州市/放置(軍事施設)
 山奥をてくてく歩き、こんなところに軍事施設などあるものなのかというくらい幅の狭い道を抜けると、そこに表れるのは壮大な明治の軍事要塞でした。周防灘に面したこの位置にこれだけの基地が必要だったのか、それは対岸の愛媛県にある要塞群にも言えることですが、果たしてこの基地群は一回も使用されることなく時代の隅に埋もれていき、現在のこのような姿を見せてくれます。
 現在北九州市が広場として解放しているようですが、管理に関しては何とも言いようがありません。もっとも下手に現代風の改装を施すよりもこちらの方が価値が維持されますね。(41.)

道原貯水池階段状水路(同左)
小倉南区大字道原 明治44年(1911)
コンクリート造導水設備 吉村長策/不詳
/06.4/北九州市/水道設備(同左)
 北九州市は見た目以上に水と縁深い都市で、水が織りなす景観をたくさん持っています。私がこれら水景観の中で一番を挙げるとするならば、河内でも紫川でもなく、(菅生の滝との合わせ技で)ここを挙げたいと思います。
 水質浄化を目的とした曝気と水流の緩速効果とを両方兼ね備えた施設ですが、やはりその流れの美しさに魅了されます。雨の日の後なんかに、ちょっとしたドライブで訪れてみるのはいかがでしょうか。(41.)

道原貯水池バルブ室(同左)
小倉南区大字道原 明治44年(1911)
コンクリート造/平屋建 吉村長策/不詳
/06.4/北九州市/水道施設(同左)
 道原貯水池・浄水場は、見た目戦後期に改築された浄水場施設ばかりが目立ってしまい、細々とした施設にまで目がいきませんが、出版企画の際に細々としたところを学会の方に調査していただいた結果、なかなかに凄い施設であることがはっきりしました。設計者は日本水道土木事業の双璧と言うべき吉村長策(もうひとりは中島鋭治)。軍籍に身を置く彼がこの作品に関わった背景には、森鴎外も関与していたという噂も残っています。歴史的にも興味深い作品と言えるでしょう。(41.)

JR石原町駅(旧小倉鉄道石原町駅)
小倉南区大字新道寺 大正4年(1919)
木造/平屋建 不詳/不詳
/05.3/JR九州/駅舎(同左)
 北九州市に遺る駅舎の中で2番目に古いものですが、その知名度は門司港・折尾に大きく遅れています。もとは小倉鉄道の駅舎として造られた建物で、建造年代は門司港駅と折尾駅のちょうど中間に当たります。
 年数が経っているため、それ相応の改修が施されているものの、小規模駅として、また洋風建築の小品として、なかなかの完成度を誇っています。今まで、この作品が紹介されなかったのは、極めて不思議な話です。(41.)

金邊トンネル(同左)
小倉南区大字呼野 大正4年(1915)
石造ポータル 不詳/不詳
/06.4/JR九州/交通施設(同左)
 日田彦山線(建造当時は小倉鉄道)最大の難所といわれた金邊峠に作られたトンネル。工事中にも落盤事故で犠牲者が発生するなど、いろいろといわくがついてしまっている施設でもあります。そのせいかどうか分かりませんが、今でもホラーめいた逸話がちらほらと残っています。
 小倉鉄道特有のトンネルアーチ部が非常に特徴的です(小倉鉄道乙式アーチ型と称されています)。ずんぐりむっくりとしたその開口部は、妙にユーモラスでなかなか愛嬌があります。(41.)

呼野水路橋(同左)
小倉南区大字呼野 大正4年(1915)頃
煉瓦造水路道路共用橋 不詳/不詳
/06.4/JR九州/水道施設・交通施設(同左)
 金邊トンネル撮影のため周辺をうろうろと巡ってみて、何とか良好なスポットを探していたときに見つけた物件、というより、トンネルの実際の撮影場所ですね。小倉鉄道がトンネルを造る際、自然河川を分断しその代わりに水路橋を通したという面白い物件です。
 世にも珍しい道路橋と水路橋との共用が行われている煉瓦アーチ。しかもその道路橋には現在も車が通ることが出来ると言うから、さらに驚きですね。現在もJRの管理になっているようですから、取り毀される前に一度見学をお勧めします。(41.)

金辺隧道(同左)
小倉南区大字呼野 大正6年(1921)
道路用トンネル 不詳/不詳
/05.3/福岡県?/運用停止(トンネル)
 現在のバイパスから山側にしばし登ると、このような隧道に出会うことが出来ます。まさに、トンネルというより隧道と呼ぶにふさわしい構造物だと言えるでしょう。近くには旧小倉藩家老の島村志津摩の碑文が遺されています。
 現在は一方に柵が設けられており、道路として使用することが出来ません。確かに、路面を見るとかなり状態が悪く、徒歩散策以外で用いることはあまり適当と言えません。わざわざ柵で囲うくらいなら、散策路として解放するくらい、いいのではないでしょうか。行政区界にあることがこのトンネルの最大の不幸かもしれません。(12.)

春吉の眼鏡橋(同左)
小倉南区大字春吉 大正8年(1919)
石造二連アーチ橋 中山熊次郎・佐島榮治
市指定有形文化財/02.3/北九州市/道路橋(同左)
 子守の女の子が溺死した事を契機として、当時の周辺住民の拠金によって建てられた石橋です。石材は周辺の川石を使用しており、周囲の景観にとけ込んでいます。
 いまでも車が通る事の出来る現役の橋です。保存のために下手に整備されているわけでなく、地域住民のために在るものとして大切に扱われているようです。ちなみに、最寄りのバス停名は「眼鏡橋」です。(6.8.12.) 

工兵第十二大隊施設(同左)
小倉南区南若園町 大正期
鉱滓煉瓦造施設 不詳/不詳
/09.6/不詳/(軍事施設)
 住宅街に続く道沿いに突如として存在する遺構。スプロール化が進んだ結果あまりに住宅に近接してしまいましたが、近くにはかつて軍関係の施設であった医療刑務所などが残っていることから、かつてここも軍関係の敷地であったと想起できます。
 書籍の中で紹介した人間が言うのも何なのですが、全く用途が分かりません。もっと奥が深くて途中で閉塞した結果このような中途半端な奥行きになっているのか、もともとこの深さなのか。そもそも何を保管していたものなのか、それとも人が出入りするような施設であったのか。未だ大きな謎として残っています。(84.)

自衛隊小倉駐屯地食堂(歩兵第四十七連隊施設?)
小倉南区北方五丁目1−1 大正期か?
木造/平屋建 不詳/不詳
/09.10/国/防衛施設(軍事施設)
 この施設に関しては、特にこれといった情報がなく、或いは戦後期に作られた施設という可能性もなきにしもあらず、なのですが、トイレを借りた際にかいま見た内装が戦前期のそれといった雰囲気を持っており、ここでは大正時代頃に作られたのではないか、という仮説を出しています。
 普段は食堂として使用されているようです。ただ、そういった普段の姿を見ることが困難に近く、自衛隊の内部イベントにかこつけて見学することしかこの施設を拝む機会がないのが難点と言えます。

小倉南区住宅施設(軍施設か?)
小倉南区若園四丁目 大正期か?
土蔵造/平屋建 不詳/不詳
/09.6/国/住居(軍事施設か)
 はっきり言って何の施設として建てられたのか、皆目検討がつきません。タラップで上にあがり何の作業をやるのか、当初は横長の窓構成と考えて良いのか、そして位置的には軍施設と想像しているのですが、それが果たして正しいのか否か。
 住人の方であれば、分かるのでしょうか。訪れた際はたまたま時間がなかったためにうかがうことが出来なかったのですが、次回来訪時は勇気を振り絞らねばならないと思う次第です。ここ数年で市内ベスト5に入る不思議な施設です。 

櫨ヶ峠隧道(同左)
小倉南区大字道原 昭和6年(1931)
鉄筋コンクリート造石張 不詳/不詳
/05.3/福岡県/交通施設(同左)
 道原の山中にある県道。石造のポータルにも親しみを覚えますが、一押しはその内部。モルタルで保護されてはいるものの、切り出したそのままの外観を少なからず留めており、往時のトンネルの持つ雰囲気といったものを十分に感じさせます。トンネル愛好者の中では有名な隧道とのことですが、県道であるにもかかわらず、実に道が狭く、あえて訪れようとしない限り、通行する人はいないようです。
 当面改修や拡幅の予定はないようですが、いつの間にか無くなっていても不思議でない、そんなひっそりとした名所のように感じました。(12.)

陸上自衛隊小倉駐屯地曽根訓練場(同左)
小倉南区下吉田1丁目 昭和12年(1937)以降
鉄筋コンクリート造 不詳/不詳
/05.3/福岡県/静態保存(軍事施設)
 元々は毒ガス弾製造工場として作られた施設。この毒ガス弾の生産地は広島県竹原市大久野島、通称毒ガス島です。現在は特に写真などが制限されており、近づくことにもはばかりを覚えます。
 なぜかというと、自衛隊による対テロ訓練施設として使用されているからで、新旧のギャップをまざまざと感じます。古い建物であることは間違いありませんが、それ以上に深く、悲しい現実を今に伝えています。(84.)

頂吉堰堤(同左)
小倉南区大字頂吉 昭和14年(1939)
鉄筋コンクリート造石張堰堤 不詳/不詳
/05.3/北九州市/(同左)
 かぐめよし少年自然の家のほとりにある池は、大きくいえばます渕ダムの一部ではありますが、最初頂吉堰堤(ダム)として作られた施設で、現在も戦前期に作られた鉄筋コンクリート造石張の堰堤が遺っています。
 頂吉側はコンクリートがむき出しとなっており、こちら側から見てみたり、もしくは堰堤沿いを歩くには、少し面白味に欠ける感もありますが、それは歴史的価値を損なうものではないことは、いうまでもないでしょう。(12.)

昭和池余水吐・トンネル(同左)
小倉南区大字朽網 昭和19年(1944)
石造水道設備 不詳/不詳
/05.3/曽根土地改良組合/(同左)
 余水吐とは、溜め池からあふれ出る水を流すための設備です。この昭和池は、北九州市で最も大きな溜め池で、戦時中の食糧増産のため作られたものです。現在周辺部は公園化されていますが、ここを訪れる人はそれ程多くありません。
 後年作られた第2余水吐と比べてみると、造形美という点でこの作品に及ぶものではありませんでした。曲面をうまく活かした石造土木構造物は、どの年代の作品でも一定の美しさを醸し出しています。(12.)

自衛隊小倉駐屯地施設(米軍チャペル?)
小倉南区北方五丁目1−1 昭和戦後期
木造/平屋建 不詳/不詳
/09.6/国/防衛施設(宗教施設)
 これまた側聞レベルの情報しか入手していない施設となります。窓のゴシックっぽい形状からあるいは、とも思っていたのですが、米軍時代にチャペルとして建てられた、との未確認情報があります。これ以上の情報もないので、ここではその話のみを取り上げ、現在の名称はただ自衛隊の施設である旨のみ記載しておこうと思います。
 建物はL字の構成を取っており、チャペルであったとしてもかなり特異な構成をしています。一度しっかり内部を見てみないと真意の程は分かりないかもしれません。 


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