近代化産業遺産 総合リスト


 
建物紹介例
<写真がここに入ります。(下は例)> 現在の建物名称(昔の建物名称)
住所(移設の場合、旧所在地) 建築年代
構造/階層 設計者/施工者
文化財指定・顕彰(ある場合)/所有状況/
使用状況(建造当時の用途)
建物説明(文末に参考文献ナンバー)

福岡県遠賀郡水巻町編

炭鉱就労者の像「躍進」(同左)
水巻町古賀三丁目 昭和初期
銅像 圓鍔勝三/不詳
町指定有形文化財/01.12/水巻町/静態保存(同左)
 縷々の系譜をたどり続ける炭鉱夫像。元々は日本炭砿の坑口近くにあったものでしたが、炭坑閉山とともに旧事務所敷地内に移設されました。しばらくそのままでいたのですが、平成17年に事務所が残念ながら取り毀されることになりこの銅像も存続が危ぶまれることとなりました。一時はなくなる危険性もありましたが、関係各人の努力によって、町が引き取り図書館敷地内に移設、保存することとなりました。
 現在は水巻町の有形文化財として指定され、図書館のシンボルとなっています。炭鉱の歴史を覆い隠すのではなく、後世に伝えるために広く紹介しようという姿勢は、筑豊の他の自治体にも是非とも見習って欲しいものだと思います。(聞き取り.水巻町史続編.)

旧日本炭礦遠賀鉱業所事務所(同左)
水巻町頃末北三丁目 昭和11年(1936)頃
鉄筋コンクリート造/2階建 不詳/不詳
2005年8月撤去/01.12/日本炭礦/事務所
 建て方のタイプとしては、地方に残る官公庁の造りに近いものがあります。日本炭礦の前身である三好鉱業時代には、折尾に炭鉱主住居と事務所が並立しており、この建物は日本炭礦株式会社成立後のものです。
 窓枠は当時のものがそのまま残っており、作りもしっかりとしています。ただ、建物というものは使われていないと急速に劣化していき、そのせいか、遂に取り毀されてしまいました。筑豊に遺る、希有に近い炭鉱事務所建築であっただけに残念でなりません。(聞き取り.水巻町史続編.)

旧日本炭礦吉田ボタ山(同左)
水巻町吉田南五丁目 大正〜昭和30年代
ボタ山 −/日本炭礦
/01.12/水巻町/用途未定(ボタ山)
 水巻町の南に位置するボタ山です。近代化遺産のカテゴリーに属すべき「構造物」か否かについては議論の生じる部分ではあるでしょうが、炭鉱産業の技術革新が進んでいく中で、ドイツよりもたらされた最新のボタ廃棄法=ボタ山が筑豊でいち早く採用されたことを示す、今となっては貴重な遺構ではないかと思い、ここに掲載します。
 現在では活用方法を使いあぐねてしまう状態で、かつては道路の基盤材として、または微粉炭を取り出したりしたため、次々に消滅していきました。近代を象徴する存在として、これからも見ていきたい遺構です。(聞き取り.水巻町史続編.)

旧日本炭礦浅川ボタ山(同左)
北九州市八幡西区大字浅川
水巻町牟田
大正〜昭和30年代
ボタ山 −/日本炭礦
/01.12/民間/用途未定(ボタ山)
 ボタ山の規模としては、筑豊の中でもかなり大規模なものでした。その存在は筑豊の中でも特異なものだったのですが、近接する自衛隊芦屋基地(米軍基地時代との説もあり)の空域に支障をきたすおそれがあるため、山頂部を切り取られてしまいました。
 その後炭鉱は閉山し、ボタ山は土壌流出を防ぐために整備されてしまい、現在往時を思い起こすような姿を留めていません。筑豊炭田の中でも水巻町は北九州市に隣接している関係もあって炭鉱に関連する史跡は急速になくなりつつあります。(聞き取り.水巻町史続編.) 

十字架の塔(同左)
水巻町古賀三丁目 昭和20年(1945)
鉄筋コンクリート造/平屋建 不詳/日本炭礦
/01.12/水巻町/墓碑(同左)
 水巻町には戦時中、オランダ兵を中心とする戦争捕虜を拘束し、炭鉱労働に従事させる収容施設がありました。捕虜の強制労働は国際法違反なのですが、欧米では日系人を強制収容していること鑑みると戦時中は国際感覚がマヒしてしまう、ある種の悲劇的状態であったのだとも言えます。
 敗戦が間近になり、戦争犯罪の追求を恐れた会社側が労働中になくなった方々の為に小さな慰霊碑を建てました。これか現在の十字架の塔です。様々な経緯を経て現在では日蘭友好のための記念施設として位置づけられています。(水巻町史続編.)


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