近代化産業遺産 総合リスト
建物紹介例
<写真がここに入ります。(下は例)>
現在の建物名称(昔の建物名称)
住所(移設の場合、旧所在地)
建築年代
構造/階層
設計者/施工者
文化財指定・顕彰(ある場合)/撮影日/所有状況/
使用状況(建造当時の用途)
建物説明。(文末に参考文献ナンバー)
長崎県長崎市(出島地区)編
出島旧石倉(旧ハルトマン・ベシル商会倉庫)
長崎市出島町
文久年間
石造/2階建
不詳/小山秀之進
/04.2/長崎市/展示施設(倉庫)
出島地区に古くから残る倉庫。現在は展示施設として用いられ、内装はそれ相応の復元が施されていますが、他の展示施設と比べると印象が薄いことは否めません。そのこと自体が悪いこととはいえないのですが、完全復元施設より目立たない現実は、少し寂しさを覚えます。
窓に取り付けられた防火扉のデザインひとつをとってみても、幕末期の職人の気概を感じます。このような施設が今でも見ることができることに感謝しなければなりません。(28.)
出島シアター(旧スハット商会倉庫)
長崎市出島町
慶応元年(1865)
石造/平屋建
不詳/不詳
/04.4/長崎市/展示施設(倉庫)
出島という空間を彩る和洋折衷型建築群の一つ。やはり石張りの瓦葺倉庫でこちらの方は竣工年代がはっきりしているようです。現在は出島の歴史を映像で伝えるシアター施設として用いられています。
出島の区域内では平成17年現在かつてあった建物群の復元を進めています。復元された建物群はどれもなかなかの手が加えられているようで、近い将来、私たちは出島がかつてあった姿を見ることができることでしょう。現在は有料閲覧施設となっているようです。(28.)
出島史料館(旧長崎神学校)
長崎市出島町
明治11年(1878)
木造/2階建
不詳/不詳
/04.2/長崎市/展示施設(教育施設)
出島一帯は明治期教育地帯としても栄えました。その中で英和学校、後神学校として用いられたのがこの建物です。大正期以降は医療施設として用いられ、昭和47年より長崎市の所有となり現在に至っています。増築された塔屋部の存在もあって旧出島の史跡内ではもっとも目立つ建物であったことでしょう。
現在でこそ周辺にはビルが建ち並び、建物は出島の中で縮こまっているようにも感じます。小屋組は部分により和小屋組とキングポストトラスが混交しており、明治期の試行錯誤の軌跡がここからも見て取れることができます。(28.)
出島橋(旧新川口橋)
長崎市出島町
明治23年(1890)
(明治43年(1910)移設)
鉄製プラットトラス橋
不詳/日本土木
/08.11/長崎市/道路橋(同左)
一見すると現在の橋梁よりも梁が華奢であることが分かるかと思います。古い橋梁だな、という印象はありましたが、それもそのはず。元々の竣工年は明治23年で、供用中の道路橋としては日本最古級の鉄橋です。
現在出島橋として現役のこの橋梁、細部にも唐草文様に飾りが施され、構造以外にも見所が満載です。平然と重そうな車が往来するその道は、文明開化からの日本をどのように見ているのでしょうか。(12.28.)
旧出島内外倶楽部(同左)
長崎市出島町
明治36年(1903)
木造/2階建
不詳/不詳
/04.2/長崎市/展示施設(余暇施設)
この位置に古くよりある建物で、老朽化のため大規模な補修が行われました。その素材こそ前と一緒ではあるのですが、写真などで比較するとずいぶん立派になりました。かつて周囲にあった建物が無くなったためか、少し浮いた感じに見えるのは、私だけでしょうか。
倉場富三郎やリンガーなど当時長崎の有力者集団が交流のために発起人となり、このようなコロニアル風の建物ができあがりました。現在は史料館のひとつとして休憩施設となり、無料開放されています。(28.)
長崎県印刷会館(日本生命保険長崎支社)
長崎市出島町
昭和2年(1927)頃
鉄筋コンクリート造/3階建
不詳/不詳
/06.2/民間/事務施設(同左)
出島敷地内にある魅力的な近代建築のひとつ。でありますが、昨今の出島復元計画に基づきますと、復元に伴って取り毀されることになっても文句の言われない位置にあります。この復元方針は、熊本でも同様のことはありますが、年代の要素によってどの建物を優先すべきか、慎重を重ねて欲しいところにあると考察いたします。
よく見れば分かると思いますが、3階部分は増築によるもので、それだけ使用頻度の高い施設であることが分かると思います。それだけに半専用軌道の中で限られた空間は大切にして欲しいなと思わずにいられません。(28.)
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