近代化産業遺産 総合リスト


 
建物紹介例
<写真がここに入ります。(下は例)>グラバー園ウォーカー邸の家具(コロ付き) 現在の建物名称(昔の建物名称)
住所(移設の場合、旧所在地) 建築年代
構造/階層 設計者/施工者
文化財指定・顕彰(ある場合)/撮影日/所有状況/
使用状況(建造当時の用途)
建物説明。(文末に参考文献ナンバー)

長崎県長崎市(グラバー園)編

旧グラバー邸(同左)
長崎市南山手町 文久3年(1863)
木造/平屋建 不詳/小山秀
国指定重要文化財/06.2/長崎市/展示施設(住居)
 国内最古の西洋式住居、と書いても大きな間違いはないでしょう。海側に大きくヴェランダを張り出したたたずまいは、単なる西洋人住居と言うよりは、大名邸宅のそれにも似た雄大さを備えています。
 部屋構成もとても不思議で、クローバー型の平面はそれまでの日本のどこにも見られない形式です。当時の日本人はこの建物を見たときどのように感じたのでしょうか、重要文化財指定は当然の帰結であり、むしろ国宝候補と言っても過言ではないでしょう。この建物の設計施工には未だ若干の謎が残されています。こんなミステリアスさも建物の魅力でしょう。(28.長崎県の文化財サイト.)

旧オルト邸(同左)
長崎市南山手町 元治元年(1864)頃
石造/平屋建 不詳/小山秀
国指定重要文化財/06.2/長崎市/展示施設(住居)
 名称がグラバー園だからグラバー邸が主役なのでしょうが、私にとってはこれが一番のメインです。何よりもスタイルがよい。石張の壁も落ち着きがあり、ヴェランダスタイルの手法もすごくこなれているようです。階高のある内部も格式を感じさせ、また高温多湿な日本の風土に合わせた感もある、重厚ながら陽気な建物です。単に私が石造建築好きと指摘されたら、返す言葉が見つかりませんが(困)。
 当初の建物所有者としてオルトの名前が冠されていますが、リンガー兄の邸宅としても使用されていました。これだけの邸宅ですから、重厚な歴史を秘めていたとしても不思議ではないでしょう。(28.)

旧オルト邸付属施設(同左)
長崎市南山手町 元治元年(1864)頃
煉瓦造/平屋建 不詳/不詳
国指定重要文化財/06.2/長崎市/展示施設(住居)
 石造の邸宅という印象が強くある建物ですが、このような煉瓦建築も遺されています。本屋と相応してこの建物も煉瓦造としては規模の大きめなものです。厨房などの用途で使用されていたようで、後に作られる日本人洋館とは異なった、簡略型の大邸宅の姿を見せています。
 オルトは茶の輸出業及び製茶業を営んでいた貿易商で、実際住んでいた時期はそれほど長くなかったようです。活水女学院の校舎として使用された後、リンガー邸、そして現在のような姿となっています。(28.長崎県の文化財サイト.)

旧リンガー邸(同左)
長崎市南山手町 元治元年(1864)頃
石造/平屋建 不詳/不詳
国指定重要文化財/06.2/長崎市/展示施設(住居)
 グラバー園内もう一つの石造邸宅。やはり造りは立派なもので、三面に広がった石造のヴェランダは壮観です。建物全体の姿が一望できるポイントがあれば(私が見逃しただけかもしれませんが)、グラバー邸以上の評価がある建物なのかもしれません。いや、このままでもかなり壮観であることには違いないのですけど。
 野外博物館の中でグラバー園が他のものと大きく異なる所として、最大の見所であるグラバー・オルト・リンガーの三大邸が元々の位置のまま展示されていることでしょう。現在は展示施設として利用されていますが、オリジナルの姿を今にとどめています。(28.)

旧自由亭(→長崎裁判所検事正庁舎)
長崎市南山手町(同市馬町) 明治11年(1878)頃
木造/2階建 不詳/
/06.2/長崎市/展示施設(商業施設)
 日本最初の西洋料理店というふれこみで有名な建物。車寄せ部分の間口の広さを見る限り、往時の建物の巨大さが理解できるのではないでしょうか。現在グラバー園に遺されている建物は一部を移築したものだそうです。
 建物は当初用途に沿った形で使用されていることが一番望ましいことは言うまでもありません。そういった意味では、この建物は移築されてはいるものの比較的幸せな使用のされ方をしていると言えるでしょう。ううむ、今度訪れたときには建物内で何か食べなければ。(28.)

旧長崎地方裁判所長官舎(同左)
長崎市南山手町(同市旧八百屋町) 明治16年(1883)
木造/2階建 不詳/不詳
/06.2/長崎市/展示施設(住居)
 堂々たる車寄せ部分は入母屋造りの和風の要素が強く、またどこか唐風の印象も持っているため、下見板張りの本屋と比較すると少しアンバランスな印象を持ってしまいます。この建物も、やはり擬洋風建築の系譜にある建物だと言えます。
 シンメトリーを崩しているところも、軒蛇腹を出桁のようにしているところも何かがどこか試行錯誤のような印象を受けます。当初の設計とは、あるいは大きく異なるのかもしれません。長崎には、このような日本人の試行錯誤の足跡が未だに多く遺っています。(28.) 

旧スチイル記念学校(同左)
長崎市南山手町(同市東山手町) 明治20年(1887)
木造/2階建 不詳/不詳
/06.2/長崎市/展示施設(教育施設)
 、グラバー園の中でも敷地のかなり端部に位置しており、目立ちづらい建物と言えます。が、市民の利用も多くあるようで、グラバー園がただの観光施設ではない所を見せてもいます。もっとも、グラバー園内にあることの意地もちゃんと持っており、建物の一階部分には長崎の古写真が多く展示されています。
 明治学院の系譜にも繋がるこの施設。現在九州山口にあるキリスト系教育機関にも大きな影響を与えているようです。そのたたずまい以上のポテンシャルを秘めた、面白い建物と言えます。(28.)

旧ウォーカー邸(同左)
長崎市南山手町(同市) 明治中期
木造/平屋建 不詳/不詳
/06.2/長崎市/展示施設(住居)
 グラバー園に遺されている他の建物に比べると若干小振りに見えてしまい、陰も薄れがちなのですが、内装はかなり重厚な造りとなっており、外国人商人の邸宅とはこのようなものか、と感慨に浸ることが出来ます。
 しかし、建物が平屋建てで、他の施設よりも天井高が低めだからでしょうか、妙に瓦屋根の印象ばかりが目立ちます。あとヴェランダ部分がこぢんまりしているところも不思議な感じがします。こちらも移築物件とのことですので、当時との環境の違いが違和感を覚えさせるのでしょうか。(28.) 

旧三菱第二ドックハウス(同左)
長崎市南山手町(同市飽の浦町) 明治29年(1896)
木造/2階建 不詳/不詳
/06.2/長崎市/展示施設(工場施設)
 この建物がどうしても工場施設の中にあったとは思いづらい、それくらい、町中と同じような華を感じさせてくれる施設です。大工場はひとつの町のようなもの、とは言いますが、なるほどこのような施設の必要性から工場という小都市の姿を感じ取ることが出来ます。
 長崎によく見られるヴェランダコロニアル建築の系譜を持っており、部屋構成を見る限り、なるほど一家庭が住むというより、事務施設と住居の中間形という印象を持ちました。(グラバー園ホームページ.)

旧長崎高等商業学校正門守衛所(同左)
長崎市南山手町(同市片淵4丁目) 明治38年(1905)
木造/平屋建 不詳/不詳
/06.2/長崎市/展示施設(教育施設)
 公式サイトにも案内がなく、施設内に入ってようやくその姿を確認することのできる施設。一見するかぎり簡素かつ華がない施設のため、重要視されていないのでしょうか。しかし、これは位置的な問題が大きく影響しているのではないかと思います。
 建物は、たとえ移築されてもその用途に準じたかたちで使用されれば、当時の雰囲気をたどることも容易になります。しかし、これでは何のための建物なのか分かりません。あるいは、こちらに置かれているのは、あくまで仮配置なのかもしれませんね。(28.) 


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