近代化産業遺産 総合リスト
建物紹介例
<写真がここに入ります。(下は例)>
現在の建物名称(昔の建物名称)
住所(移設の場合、旧所在地)
建築年代
構造/階層
設計者/施工者
文化財指定・顕彰(ある場合)/撮影日/所有状況/
使用状況(建造当時の用途)
建物説明を。(文末に参考文献ナンバー)
佐賀県武雄市編
旧田代酒造(同左)
武雄市大字武雄
文久2年(1862)
木造/2階建
不詳/不詳
/10.2/大関酒造/静態保存(醸造施設)
武雄温泉の近郊にあり、長崎街道沿いで一番大きな建物ですので、これは何か由緒のあるものではないかと思いながら写真を撮ったのですが、帰って文献を見るともともとは醸造施設と分かりました。現在は使用されていないようですが、現在の所有を勘案するに、一時期九州向けの樽買い施設であったのだろうと思われます。
市教育委員会の管理の下、公開されることもあるようです。場所が場所なだけに、街道関連のイベントでは存分に使用されるのではないでしょうか。(21.)
武雄温泉第一源泉小屋(同左)
武雄市大字武雄
明治8年(1875)
木造/平屋建
不詳/不詳
/10.2/武雄温泉/温浴施設(同左)
見たところ、確かに古い建築物であることは一目瞭然、といいたいのですが、ここは温泉地。温泉に含まれる成分の影響もあって、普通よりも木材が古そうに見えますが、ここでは近代化遺産報告書の説である明治8年のものとして見ていきたいと思います。
和風楼閣がそのまま地上から生えてきたような構造をしています。当然源泉調整のための簡易施設であることも影響しているのでしょうが、見ようによっては灯籠にも、鐘楼のようにも見えることが興味をひかれてなりません。どこかで詳しい調査を行っていないものでしょうか。(21.)
武雄温泉本館(同左)
武雄市大字武雄
明治9年(1876)
木造/平屋建
不詳/不詳
/10.2/武雄温泉/商業施設(同左)
大振りな木造建築で、目につく近場の一階部分を見る限りでは最近造られた建物と見分けがつかないのですが、主要構造は明治9年に作られたとのこと。実際は温泉施設ですので、湿気などに悪くなった部分を適宜改装していったのだと思うのですが、入浴した元湯の構造的なところからは、元の構造部分はどのくらいあるのか判別できませんでした。
建物の元々の構造は変わらないでしょう。入浴する人間は近代のものかどうかなどとは考えず、良好な源泉100%のお湯を感じられる幸せをかみしめましょう。(60.)
武雄温泉新館(同左)
武雄市大字武雄
大正4年(1915)
木造/2階建
辰野葛西建築事務所/清水組
国指定重要文化財/04.6/武雄温泉/静態保存(温浴施設)
近年の改修によって往時の姿を取り戻した作品。内部意匠の一部には鹿鳴館と同じものがあったとの宣伝も聞き及びましたが、偶然と言うことも、また辰野金吾のいたずらと言うこともできます。
建物そのものの貴重さ、また地元由来であろう浴室のタイルの美しさは、何物にも代え難い貴重な文化財です。現在は県の文化財ですが、重要文化財の予備軍、、、と書いてまもなく本当に重文になってしまいました。それだけの一貫した気品を感じる建物です。(現地案内板.21.)
武雄温泉楼門(同左)
武雄市大字武雄
大正4年(1915)
木造楼門
辰野葛西建築事務所/清水組
国指定重要文化財/04.6/武雄温泉/楼門(同左)
竜宮形式という名にふさわしい、城門を思わせる優美な建築。明治建築界の泰斗、辰野金吾の和風建築の代表作といわれています。有名な作品であるにもかかわらず、県文化財のレベルで落ち着いていたのは、一般的な知名度の低さや国と県の管理責任の帰存に問題があったのかもしれません。平成17年、晴れて重要文化財になりました。
建物内には飲食施設も営業しています。よく見れば一階部分が四角い形状である原因は、各支柱部分に部屋を設ける必要が当初からあったのでは、と思えます。(21.33.)
西福寺六角堂(同左)
武雄市大字武雄
大正5年(1916)
木造/平屋建
不詳/不詳
/10.2/宗教法人/宗教施設(同左)
六角形の施設で、瓦葺きであることと虹梁がついていることから和風のテイストを強く押し出してはいるのですが、障子の建具などはどこか洋風のニュアンスを思わせます。現在分かっている記録からは著名な建築家や施工者などの経緯は分かりませんが、なかなか気合いの入った建物であることは間違いないでしょう。
写真からは見えませんが、切妻部分を持った面もあり、ここからは寺の主要建築に繋がった渡り廊下などもあったのかも知れませんが、現在の状況から建築時の目的などは把握できません。(21.)
佐賀銀行武雄支店(同左)
武雄市大字富岡
大正13年(1924)
鉄筋コンクリート造/2階建
不詳/不詳
/10.2/大分銀行/金融機関(同左)
一見する限り近年作られた銀行建築と見間違いかねないのですが、都市規模以上に大きな支店であることと、縦長窓かつ窓の少なめなプロポーション、そして基礎部分にふんだんに使用されている御影石などから見て、大正末期に作られた銀行支店と見て間違いないでしょう。
或いはATMが主要用途になっているかも知れませんが、今でも銀行支店として使用されています、ひとつ気に掛かる問題があるとすれば、真ん前の道路が拡幅途上にあることでしょうか。(21.)
御厨印刷所(同左)
武雄市大字武雄
大正期か?
木造/2階建?
不詳/不詳
/10.2/民間/商業施設(同左)
長崎街道沿いにある蔵造りの建物で、小振りな外観と用途の珍しさが印象的です。外壁の全面がトタンで囲まれているため、当初用途は定かではありませんが、おそらく後付けで作られたであろう切妻の車寄を取り付けることによって、事務所建築としての風貌を整えています。
中をそおっと覗いてみると、何と今でも印刷所として稼働しているようです。いつから印刷所として使用しているか分かりませんが、なかなか愛のある使用方法だな、。感心する次第です。
唐津屋旅館(同左)
武雄市大字武雄
昭和初期か?
木造/3階建
不詳/不詳
/10.2/民間/商業施設(同左)
武雄温泉楼門からのメインストリートすぐの位置にある、現役の木造三階建旅館。南隣が看板建築の旧菓子店で、北隣は飲食店となっています。同じ所有者なのかも知れませんが、これだけ近代建築が立ち並ぶと、往時のにぎやかさを感じ取ることが出来てうれしくなってしまいます。
規模的には商人宿的な側面もあるのでしょうが、武雄温泉の中心部にある旅館として、これからも元気であって欲しい施設と言えます。願わくば、行政などの景観助成金を得て、当初の外観を復元していただければ、周囲の雰囲気の良さを絡めて観光客は倍増するのでしょうが、、、これは欲目でしょうか。
西福寺楼門(同左)
武雄市大字武雄
昭和初期
木造・鉱滓煉瓦造/2階建
不詳/不詳
/10.2/宗教法人/宗教施設(同左)
武雄で楼門といえばどうしても温泉施設の方を想像しますが、こちらの楼門もなかなかの構えをしています。武雄温泉の楼門と似たような色遣いをしておりますが、大きく違うところは一階部分に鉱滓煉瓦のアーチ構造を使用しているところにあるでしょう。
鉱滓煉瓦を使用した施設で寺社建築に使用している例は僅かしかなく、また現在でも当時の姿をとどめているのはここ含めても僅かと言えるでしょう。なかなか威厳を持った重要な遺産と言えます。(21.)
旧奉安殿(同左)
武雄市大字武雄
昭和初期
木造/平屋建
不詳/不詳
/10.2/武雄市/静態保存(教育施設)
武雄鍋島藩の邸宅であった敷地内に遺る倉庫建築。経年変化からか、やたらどっしりもっさりしている印象を持ちますが、元々は奉安殿として作られた施設であったようです。
戦後邸宅は武雄市の市民会館となり、鍋島家が建てた庭園はかろうじて保存され現在でも見ることが出来ますが、この奉安殿に関しては、敷地の一番端っこにあるからか、特に案内板があるわけでもなく、半ば放置されている状況となっています。私のように経緯が分かっている人間は写真を撮るでしょうが、それ以外の方には、単なる目立たない倉庫以外の何者でもないでしょう。(60.)
水月堂菓子店(同左)
武雄市大字武雄
昭和初期?
木造/2階建
不詳/不詳
/04.6/民間/商業施設(同左)
看板建築という名にふさわしい、長細い構造の商店建築。2階上軒部分の装飾に、昭和初期の伸びやかな商店建築、その意匠性を感じましたが、実際の所は本格的に調べてみないと分かりません。
これだけ目立った建物なはずなのに、あの佐賀県の近代化遺産報告書(私が読んだ中でも1、2を争うくらいすばらしい報告書)のなかで漏れているのはきわめて残念と言うほかありません。
現在の用途が今ひとつよくわからなかったのですが、2010年現在近隣の商業施設の倉庫になっているようです。
松尾産婦人科医院(旧香田医院)
武雄市大字武雄
昭和元年〜5年(1926〜30)
鉄筋コンクリート造/2階建
不詳/不詳
/10.2/民間/静態保存(医療機関)
武雄の市街地内を横断する長崎街道沿いを歩くと、見応えのある洋館を目にします。現在は使用されていないようですが、隣接して産婦人科があることから、かつては同じ用途で使用されていたことが分かります。
モルタルとタイルでデザインが施されています。これは昭和初期の洋館に代おける常套手段のひとつですが、改装を受けずそのまま遺されている例は県内においては希少と言えるでしょう。保存状況は良好なだけに、何らかの形で使用して貰えればな、と思わずにいられません。(21.)
如蘭塾(同左)
武雄市大字武雄
昭和17年(1942)
木造/平屋建
遠藤新/松尾建設
国登録有形文化財/04.6/民間/教育施設(同左)
さてこの作品、設計者はフランク・ロイド・ライトの忠実な後継者である遠藤新と言われています。しかし遠藤の真骨頂たるライト風意匠はかろうじて玄関の親柱にあるのみでこの建物はほぼ和風の意匠に終始されていると言って良いでしょう。
建物自体は日中友好を祈願した創業者が留学生子女の寄宿舎として造ったもので、現在もその遺志は受け継がれている、といわれています。ただし、私が訪れたときは、いくら呼びかけても誰もいなかったのですが、、、。(21.23.)
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