近代化産業遺産 総合リスト


 
建物紹介例
<写真1がここに入ります。(下は例)>北九州市立美術館 現在の建物名称(昔の建物名称)
住所(移設の場合、旧所在地) 建築年代
構造/階層 設計者/施工者
文化財指定・顕彰(ある場合)/所有状況/
使用状況(建造当時の用途)
建物説明。(文末に参考文献ナンバー)

北九州市戸畑区編

旧安川邸大座敷(同左)
戸畑区一枝一丁目
(若松区)
明治22年(1889)〜明治36年
木造/平屋建 不詳/不詳
/09.5/安川電機/用途未定(住居)
 夜宮公園に隣接する形で静かにたたずむ旧個人宅。この家の主であった安川敬一郎は重要文化財となっている旧松本邸の主松本健次郎の父親で、元々は若松にあった自宅を戸畑への本拠移転に伴い移築したものと言われています。
 戸畑の一等地にこれだけの規模を持ちながら明治期の和風建築が遺っていようとは、実際見学するまでは想像だにできませんでした。早く一般の目に触れられることを願うばかりです。(41.)

九州工業大学表門守衛所(旧明治専門学校表門衛所)
戸畑区仙水町 明治42年(1909)
木造/平屋建 辰野葛西事務所/鴻池組
/九州工業大学/守衛所(同左)
 九州工大前駅を降りまっすぐ南へ。しばらく歩くと九州工業大学が見えてきます。その正門から右手側に見えるのがこの建物です。小さいながらも曲線の庇をはじめとした窓周りにデザイン性が感じられます。辰野金吾の建築の中でもすっきりとした建物ではないでしょうか。
 明治専門学校の建造物群は辰野金吾によって設計されたものでしたが、戦後の一時期に次々と取り毀され、現在遺る創業時の建物はこれひとつのみとなってしまいました。(5.8.)

九州工業大学正門(同左)
戸畑区仙水町 明治42年(1909)以降
鉱滓煉瓦造正門 不詳/不詳
/九州工業大学/教育施設(同左)
 日本の国立大学には、それぞれに格式を持った玄関を備えており、こちらの大学にもそれが当てはまります。しかしわざわざ最新技術であった鉱滓煉瓦をできたての学校正門を用意するあたり、設計者には野心的な思惑があったのかもしれません。つい最近まで私は石造と思いこんでいたのですが、成分分析によって鉱滓煉瓦造ブロックを使用していることが分かりました。
 当時としては採算を度外視し、地域に必要な工学系人材を養成するために造られた専門学校は現在国立に移管され、当初もくろみの通り地域に人材を供給しつづけています。(41.)

西日本工業倶楽部・洋館(旧松本健次郎邸)
戸畑区一枝一丁目 明治44年(1911)
木造スレート葺/2階建 辰野片岡事務所/安川松本商店臨時建築部(久保田小三郎)
国指定重要文化財/03.11/西日本工業倶楽部/倶楽部(住居)
 建物と内装品とが融合したかのようなデザイン性の高さが特徴的な、日本でも希有な文化財です。九州、いや日本炭鉱業の隆盛を今に伝えるその外見は、ハーフティンバーが見せる直線と時折現れる曲線とが織りなす芸術品と言えます。
 設計者は明治の巨匠・辰野金吾。アール・ヌーヴォー建築の代表作と言われ、部屋毎の内装、調度品、壁や床に至るまで気の抜けたところは全くありません。年二回の公開日には是非訪れることをお薦めします。北九州が誇る明治の代表建築です。(5.8.パンフレット.)

西日本工業倶楽部・日本館(旧松本健次郎邸)
戸畑区一枝一丁目 明治44年(1911)
木造瓦葺/2階建 久保田小三郎/安川松本商店臨時建築部(檜和田金八他)
国指定重要文化財/03.11/西日本工業倶楽部/余暇施設(住居)
 素晴らしい洋館の東側、隠れるかの様に併設している建物は、日本の典型的な和風建築というところが実に面白い取り合わせであると言えます。こちらの建物は安川商店の建築担当者が設計を行ったそうで、洋館の迎賓館的な華やかさに比べこちらは実用面を重視した内装を見せています
 洋館に負けなにいくらいの気合いが欄間や天井などに見られ、和風建築としても注目すべき遺産でしょう。(5.8.パンフレット.)

旧安川邸北の蔵(同左)
戸畑区一枝一丁目 明治45年(1912)
煉瓦造石張/2階建 不詳/安川松本商店臨時建築部(久保田小三郎)か?
/09.5/安川電機/倉庫(同左)
 棟札から、竣工年日が判明している、旧安川邸敷地内でも珍しい物件のひとつ。見所は煉瓦造の構造体を感じさせない、石張意匠の贅沢さでしょう。石を煉瓦積に合わせるような形でリズミカルに配置している様は、単純に積んだ石造倉庫にはない魅力を持っています。
 北九州地域内ではおそらく唯一の石張り倉庫建築であり、作り方の贅沢さで言えば県内随一の作品と言えるでしょう。南北倉庫間の部分の渡り廊下に使われた木材も必見で、もうこれだけでも見る価値のある物件ですが、現在非公開なのは残念です。(41.)

いくよ旅館(不詳)
戸畑区南鳥旗町 大正2年(1913)
木造/2階建 不詳/不詳
/民間/商業施設(同左)
 堂々とした風格を持つ旅館。戸畑駅の北口近くにある、かつて若松との往復で賑わい成長した町の成立過程を現在に伝える重要な施設です。
 後年の改装が各箇所に影響を及ぼしているようで、たとえば二階部分のガラス張りカーテンウォール的な所などは元々欄干を取り付けたもっと和風の伝統様式に沿ったものではなかったかと容易に想像できます。低位に改装されているが故に、当初の姿はどのようなものであったのかと想像力がふくらみます。(41.)

田中酒店(同左)
戸畑区本宮町 大正2年(1913)頃
木造/2階建 不詳/不詳
/09.5/民間/住居(商業施設)
 堂々たる総二階建ての木造建築。製鐵所戸畑地区の飛幡門に近接していることから、戦後期は製鉄マンでごった返しており、その勢いが建物そのものの贅沢さにも現れています。もっとも、その頃は製鐵所の名前は東洋製鉄という民間会社で、1934年に日本製鉄として八幡側と合併されています。
 戸畑地区は近年急速に住宅地化が進んでおり、事業者用に開けていた商店が次々と店じまいをしています。この角打ち店もその一例となってしまいました。(41.)

新栄運送施設(明治紡績工場施設)
戸畑区牧山新町 明治〜大正期
木造/平屋建 不詳/不詳
/03.8/民間/工場施設(同左)
 工場建築の典型である鋸屋根を持つ木造建築ですが、ポイントは道路とは反対側に拡がる防火壁です。煉瓦造の防火壁は工場内側からはモルタルによる塗装が施され、そうとは確認しづらくなってはいますが、この様に外部からはその姿を見る事が出来ます。
 元々は明治紡績の戸畑工場内施設として作られたもののようです。現状の姿から鑑みるに、現在遺っている施設は一部のみで元々はかなり大きめのノコギリ屋根工場であったと考えられます。北九州現存唯一の紡績工場遺構として重要な施設です。(41.)

明治紡績工場施設(→日本溶接協会九州検定試験場)
戸畑区牧山新町 大正期?
煉瓦造/平屋建 不詳/不詳
2013年解体/03.8/日本溶接協会/教育施設(工場施設)
 所有者の中では紡績工場の施設であったと言われていましたが、長年その由緒は定かではありませんでした。出版企画に基づく調査により、紡績工場の関連施設であることがはっきりしました。航空写真から見るとL字型に構成された建物で、溶接検定機関の施設として利用されていましたが、惜しくも解体されました。
 装飾は控えめですが、防火壁の立派さが目立つ建物です、煉瓦造の壁面の一部は新施設にも受け継がれたようですが、少し残念といわざるを得ません。(41.シアテックwebsite.

ニチモウ倉庫(日本漁網船具戸畑支店倉庫)
戸畑区銀座二丁目 大正期か
煉瓦造/平屋建 不詳/不詳
/民間/倉庫(同左)
 日本水産の事務所の影に隠れるようにして遺されている煉瓦造の倉庫群。日本水産の関連会社であるニチモウが持っている倉庫と言われています。
 ここ戸畑の地は共同漁業に関連した多くの企業が誕生した地です。ニチレイもそうなのですが、この地で誕生したニチモウの石油部門からはキグナス石油が生まれました。多くの企業を生んだ土地ではあるのですが、今ひとつ創業の地として顕彰されているとは言えず、一抹の寂しさを覚えます。(41.)

共同漁業戸畑工場(同左)
戸畑区銀座二丁目 大正期
鉄筋コンクリート造/2階建 不詳/不詳
2006年春解体/日本水産/工場施設(同左)
 共同漁業(現日本水産)がトロール漁業の拠点基地として戸畑港を整備するに当たり建設した、荷揚げと加工を行う施設。長大な工場施設でその姿は対岸の若松からも特徴的に見えました。
 竣工当初は一階部分はピロティーのようになっていて、船からの荷揚げはここで行っていたのではないかと考えられます。二階部分はカーテンウォールで造られており、磨けばコルビュジェ建築のような骨太の建物と見えたでしょうに、さっさと取り壊すのは残念と言うほかありません。(41.)

バックトン引張試験器(同左)
戸畑区仙水町 大正10年(1921)以前
教育用工作機械 不詳/英Buckton社
/04.5/九州工業大学/静態保存(工業機械)
 九州工業大学の戸畑キャンパスにはいくつかの野外機械展示が行われています。そのうち(機械学会的に)もっとも重要といわれている作品がこれ。元々は赤煉瓦の実験棟にあった引張りねじれなどの金属加工試験を行うための機械でした。建物解体とともに失われることを危惧した一部教授の手によって現在この姿を遺しています。
 同型のものは日本に2機しかなく、たとえ静態保存・野外保存だとはいえ、その存在は非常に重要なものだと言えます。大学構内にあるため、なかなか見ることは出来ませんが、オープンキャンパスの時にご見学ください。(41.)

一文字島岸壁竣工記念碑(同左)
戸畑区銀座二丁目 大正15年(1926)
鉄筋コンクリート造記念碑 不詳/戸畑市
/09.5/北九州市/静態保存(記念碑)
 海際に立っている記念碑、、、ではあるのですが、どうにも目立ちません。それどころか、よく見てみると、少し斜めに建物寄りに傾いているようでもあります。これはやはり、埋立地であることによるものなのでしょうか。
 元々は人工島であった一文字島を近くの海岸と陸繋し、事業用地を増やす目的で行われた埋め立て事業の記念碑で、この埋立地に進出したのが現在の日本水産です。そういった意味では、もう少し注目してあげても良いように感じるのですが、、、。(41.)

旧安川敬一郎隠宅(同左)
戸畑区一枝一丁目 大正15年(1926)
木造/2階建 清水組/清水組
/09.5/安川電機/用途未定(住居)
 隠居部屋と言うには少し規模が大きすぎる本格的な洋館。内装は戦前の豪邸そのものと言うべき質感を持ち、なおかつ大正期の空気をそのままパッケージ保存したような、その時代に沿ったなかなかの造りをしています。
 松本邸という九州有数の洋風邸宅建築を抱え、これだけでも他地域に自慢しても良い戸畑には、安川邸というもう一つの傑作を持っていました。この事実を知ることが出来ただけでも、私にはうれしくて仕方ありません。(41.)

九州工業大学標本資料庫(旧明治専門学校鉱山工学科)
戸畑区仙水町 昭和2年(1927)
鉄筋コンクリート造/2階建 不詳/不詳
/01.6/九州工業大学/静態保存(保管施設)
 大学構内を進んでいき、建物の中に隠れているように建てられている建物がこれです。近代化遺産建物関連では使われない建物の用途としてお決まりとなっている「資料庫」。とはいえ、大学の歩みを考える上ではこの建物をおろそかにするわけにはいかないでしょう。
 もともと九州工業大学は筑豊炭田の石炭産業を背景にして、技術者の養成を視野に入れた専門学校として建てられました。この建物は鉱山工学を行っていたところとして、まさに北九州の工業を縁の下から支えた建物と言えるでしょう。近年大幅な改修工事を受け、大学の記念施設として大きく生まれ変わりました。(5.)

新日本製鐵鉱滓線宮田山トンネル(同左)
戸畑区西大谷 昭和4年(1929)
鉱滓煉瓦造トンネル(石ポータル) 八幡製鉄/八幡製鉄
/04.3/新日本製鐵/トンネル(同左)
 反対の枝光側とは全く違った意匠でかたどられたトンネル口は、意外に住宅に近接しており、また大通りからもひとつ奧に入った場所にあるため、そこを訪れる人はなかなかいません。
 蔦に覆われたその外見は、さながらヨーロッパの古城のようで、製鉄業の持っていた威厳性と共に今は工業都市の歴史の奥深さを感じさせます。
 写真からもわかると思いますが、もともとは複線の線路が走っていましたが、鉄道輸送の需要低迷、または製鐵自体の主幹工場再編などにより、現在は単線での運行となっています。(5.12.)

戸畑図書館(旧戸畑市役所)
戸畑区新池一丁目 昭和8年(1933)
鉄筋コンクリート造/3階建 福岡県営繕課/鴻池組
/02.8/北九州市/役所(同左)
 中央にある塔に瓦屋根を持つ、いわゆる帝冠式の建物です。ほぼ同じ時期に名古屋市役所や大牟田市役所など同じような建物が建てられており、このスタイルが同時期の官庁建築の流行だったのかもしれません。しかし戸畑のそれはスクラッチタイルを使用して、他の建物よりもデザイン的要素が強いように感じます。
 一見2階建てのように見えますが、傾斜地を利用した建物で正面入口は2階になります。現在戸畑区役所は元の市民会館跡地に新築移転され、移転後大規模なリノベーションを経て2015年より図書館として生まれ変わりました。(5.8.)

旧明治紡績戸畑工場(同左)
戸畑区牧山新町 昭和初期
鉄骨造/平屋建 不詳/不詳
2006年冬解体/池畑組/工場施設(同左)
 鋸屋根の切妻部分がはっきりと分かる、いかにもと言うべき紡績工場。私が訪れたときには、港湾土木を請け負っていた企業・池畑組の工場として現役で使用されていましたが、この会社が民事再生法を申請したため、長らく使用され続けてきたこの施設も現在は大部分が解体撤去されてしまいました。
 北部九州には多くない軽工業の雰囲気を持つ、数少ない建築であっただけに、もう少し見たかったと言わざるを得ません。一部が保存されているのでそこで満足すべきなのでしょうが、、、、。(41.)

朝日湯(同左)
戸畑区千防二丁目 昭和初期
木造/平屋建 不詳/不詳
/06.6/民間/商業施設(同左)
 建物正面の仕上げ方が妙にモダニズムな、味わいのある建物です。私が訪れたときはちょうど夕方、銭湯がオープンしたばかりのようで何人かの仕事帰りの方々がばたばたと入っていました。
 北九州市内には、工場文化の名残をとどめる形でいくつかの銭湯建築が今もなお現存しています。昨今の燃料価格高騰でまた急速に営業を取りやめる店が出てきており、またスーパー銭湯の乱立も銭湯屋さんが少なくなる原因と言えます。今ならば、これらを遺していくことが出来ると思います。さあ、皆さん銭湯行きましょう!(41.)

日本水産北九州営業所(旧共同漁業ビル)
戸畑区銀座二丁目 昭和11年(1936)
鉄筋コンクリート造/4階建 竹中工務店/竹中工務店
/00.8/日本水産/事務所(同左)
 若戸大橋や対岸からよく見える建物。ニッスイの前身である共同漁業は昭和4年に下関から当地に移転、戸畑はトロール漁業の一大拠点となりました。戦後国内漁業は規制に押され徐々に影を潜め、今の戸畑港は静かなたたずまいを見せています。
 この建物は戸畑の漁業を語る上で欠かせない威容を今も誇っています。角地に特徴的な左右の対称性と中央部の塔屋がポイントでしょうか。一階部分はニッスイパイオニア館という資料館になっています。(5.8.ニッスイHP)

明治製菓九州工場(同左)
戸畑区銀座一丁目 昭和11年(1936)
鉄筋コンクリート造/4階建 阿部美樹志/清水組
2003年12月解体/01.8/明治製菓/工場(同左)
 戸畑駅のホームから若戸大橋方面を向けば見えていたのがこの建物。一見事務所のように思えるような建物ですが、中ではお菓子が作られていました。看板を除けば左右の対称が際だつかと思います。左右の塔屋上部にある丸窓にデザイン性を見いだすことが出来ます。
 工場は平成14年に閉鎖、戸畑駅の看板的存在であったこの建物も、今はもう見ることが出来ません。現在跡地にはマンションが建設され、形骸を留めるものは遺されておりません。(5.8.)

大分銀行戸畑支店(豊前銀行戸畑支店)
戸畑区旭町 昭和12年(1937)
鉄筋コンクリート造/2階建 不詳/不詳
2014年解体/05.6/大分銀行/金融機関(同左)
 正面から見てこれは戦前期、あるいは戦後復興期に建てられたものではないかと感じた方は、相当の目利きと言えるでしょう。正面がぎっしり最近風のタイルで覆われ、窓枠が更新されると、1960年代の建物と思われがちですが、初期モダニズムの作品でした。しばらく見ない間に取り壊され、残念無念です。
 豊前銀行は中津市に本店にあった金融機関で、昭和恐慌を機会にして起こった大分県の銀行大同合併によって大分合同銀行、戦後大分銀行の支店として使用されていました。(41.)

旧安川邸本宅玄関(同左)
戸畑区一枝一丁目 昭和13年(1938)
木造/2階建 清水組/清水組
/09.5/安川電機/用途未定(住居)
 大胆とも言うべきむくり屋根を持つ車寄せと落ち着いた色合いを見せる建物との取り合わせは、昨今建てられたお金持ちの家と言われても納得できるほどの新鮮さを持っています。
 少し見えづらいですが、車寄せの大谷石系の使用はライト風であり、中の玄関部分は北欧の流れを持ったモダニズムの建物。新しくて、懐かしい、不思議な作品と言えます。この棟から続いていた本宅自体は雨漏りによって取り壊されてしまいましたが、これ以前の時代に作られた各種の建物が同邸には良好に保存されています。(41.)

九州工業大学記念講堂(同左)
戸畑区仙水町1−1 昭和35年(1960)
鉄筋コンクリート造 清家清/不詳
/09.5/九州工業大学/改修中(教育施設)
 麗しき折版構造の屋根を持つ、扇形のたたずまいを持った大学講堂。東京工業大学教授ででもあった清家清の設計による作品で、DOCOMOMO135選にも選ばれています。
 東京の設計者という側面があることからか、やはり北九州地域と言うよりは外部の評価が非常に高い建物と言うことが出来るでしょう。若干複雑な心境ではあります。(41.)


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